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【展】「水木しげるの戦争と新聞報道」展へ

こちらも、8月21日のことなのですが(^^;
ピースあいちに「水木しげるの戦争と新聞報道」展に行ってきました。

そもそもは、名古屋栄のパルコで開催していた、ドラマ「きのう何食べた?」展に行きたいと思ったんです。

その情報をネットで見ていたら、同日にピースあいち⇒パルコへとはしごをしている人たちがちらほらおられまして、

それなら私も!と思い立ったという、ちょっとよこしまな理由。
こんな記事も中日新聞に掲載されていましたし。

ほんとにきな臭い世の中ですよね!!


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ピースあいちについては、HPをご覧ください。(こちら
町中にこじんまりと建っている小さな博物館です。

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夏休み中だったこともあったと思いますが、子どもさんたちがいっぱい来ていました。

館内展示物はやはり撮影禁止で。。

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3階建ての建物の3階部分で水木しげるの戦争と新聞報道展。
水木しげるさんの原画や戦争の経過に従った当時の新聞の展示などです。

Media for Societyという市民の情報メディアサイトが詳細をアップしていますので
(GJ!Media for Society!)リンク貼ります!
こちらです!

私も水木しげるさんの本をゲット。
間違って同じ本を2冊買ってしまいました(どじ←死語か)。
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ピースあいちの西形久司さんというかたが書かれたパンフレットは戦争の経過がよくわかるのでご紹介します。

特別展「水木しげるの戦争と新聞報道」をよりよく理解するために

・朝鮮半島から「満州」そして中国へ
1910年に朝鮮半島を併合した日本は「満州」への侵攻を目指し1931年に「満州事変」をおこす。
半年で満州のほぼ全域を占領、1937年に中国との全面戦争へ。
そして上海へなんとか上陸すると首都南京で南京事件を起こす。
(にわか仕立ての編成で統制が十分とれなかった)
中国は首都をお口の重慶に移し日本軍は戦局への見通しを失う。

・アジアの戦争から世界の戦争へ
日本軍が中国侵攻したためアメリカイギリスが蒋介石政権に支援
ヨーロッパではフランスがナチスドイツに降伏すると、日本軍は蒋介石政権へ物資の輸送ルートを遮断するために今のベトナムに侵攻した。
ドイツがヨーロッパで目覚ましい戦果を挙げた為日本軍は幻惑されたのだ。
ゴムやボーキサイトや石油など工業資源を確保するために米英に宣戦布告、
中国との戦争が世界規模の大戦へと結びついた

・アジア太平洋戦争の開始
1941年の真珠湾攻撃の40分後にアメリカに宣戦布告
イギリスには通告予定すらなかったが、アジア太平洋戦争の火ぶたが切られた
日本国内はラジオニュースを聞いて歓喜に沸いた
意外に知られていないが、日本軍にとって南方の資源の確保が最大の戦略目標だったから、マレー半島フィリピンなどの南方侵攻作戦が開戦段階の作戦の中心だった。ハワイはそん支援作戦に過ぎなかった。中途半端な攻撃だったために撃沈されたアメリカの19隻の戦艦のうち17隻が戦争に復活している。
同じく開戦初日、ルソン島で200基のアメリカ軍機を撃破したため南方の資源確保への作戦は容易になった。

・戦局の転機と航空兵力の欠陥
開戦以来マニラ、香港、シンガポール、インドシナ半島、オランダ領東インド、ビスマーク諸島(ニューブリテン島含)など南太平洋の島々まで占領し国中が沸いていた。
1942年6月ミッドウェー海戦でアメリカに大敗空母4隻と320機の空機と熟練パイロットを失った。
そのひと月前の珊瑚礁開海戦で121名のパイロットを失っていた。
8~11月のガダルカナル島の攻防で残った熟練パイロットの大半を失った。
開戦から約一年で熟練パイロットは極めて少なくなった状態で、敗戦まで戦った。
工業力も不足していたのに航空機エンジンは操縦も整備も何度が高いのは致命的な弱点だった。
国民には真相は報道されずガダルカナル島からの撤退は「転進」
アッツ島守備隊の全滅は「玉砕」と報道され、戦後まで実態は明らかにされなかった。

・絶望的な戦いを強いられた日本軍兵
日本軍は補給路を断たれ後方の取り残された島々では自給自足で生き延びるしかなかった。
北太平洋のウェーク島では島内のみに生息ずるウェーククイナという鳥を日本兵が食べ尽したため、絶滅した。
1944年7月サイパン島が陥落「玉砕」
大本営陸軍部戦争指導班ではこの戦争は「ジリ貧」と見切りを付けていた
戦時中8年間に戦死した兵士の死亡時期は最後の一年間に65%と集中しているという愛知近郊の村がある。
近年の研究では日中戦争~アジア太平洋戦争の日本軍戦死者230万人のうち140万人が栄養失調を含めた餓死だった。

・敗戦によって得たもの
1944年11月にB29による日本本土爆撃が開始。
1945年8月の広島長崎への原爆投下を含め、死者は本土で80万人。
その後ソ連の対日参戦。
8月15日に敗戦を迎えたが、水木しげるさんを含めた兵隊たちの帰還はその後何年もかかり、その間にも大勢が病気などで亡くなった。310万人以上の日本国民、その数倍と言われるアジアの人々が亡くなった。
【戦争は失うものばかりで、得るものは何一つありません。いえ、一つだけ得たものがありました。二度と戦争はしないと世界に向けて誓った私たちの憲法は、そのようにして得たものなのです。憲法が政府に対する命令である以上、それを政府に守らせることは、いまを生きる私たち国民の、あの戦争で傷つき亡くなった人々に対するせめてもの誠意なのではないでしょうか】

参考文献 山田朗『近代日本軍事力の研究』校倉書房2015年 吉田裕『日本兵士 アジア・太平洋戦争の現実』中央公論社2017年 藤原彰『餓死した英霊たち』青木書店2001年『大本営陸軍部戦争指導班 機密戦争日誌』錦正社1998年

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戦争について、もうちょっと知りたくなったので、昔の子どもの教科書や、姪の今の教科書を見せてもらって読んでいるところです。
自分も昔習ってきたんだけど、その時はあんまり…いや、ぜんぜん深く考えなかったなぁ。
教科書はなかなかきちんと俯瞰的に日本の戦争への歩みを教えてくれています。
それなのになぜ違うことを言う人がたくさんいるのでしょうか。
謎、というか、ちゃんと教科書に即して学んでないということでしょうかね。


今回ピースあいちさんの展示を見ることができてよかったです。
水木しげるさんの展示は特別展示で9月1日で終わってしまいましたが
1階2階部分の常時展示は必見です。
平和ボケしている身にとてもつまされました。





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2019/09/16(月) 01:55:09 | - │ | [編集]

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