【本】逝かない身体/川口有美子

4260010034逝かない身体―ALS的日常を生きる (シリーズケアをひらく)
川口 有美子
医学書院 2009-12

by G-Tools


タイトルのとおり、ALS患者であるお母さんを12年の介護の末に見送った著者の手記。
ALSというのは筋萎縮性側索硬化症(きんいしゅくせいそくさくこうかしょう)という、「重篤な筋肉の萎縮と筋力低下をきたす神経変性疾患で、運動ニューロン病の一種。きわめて進行が速く、半数ほどが発症後3年から5年で呼吸筋麻痺により死亡する(人工呼吸器の装着による延命は可能)。治癒のための有効な治療法は確立されていない。」ここまでウィキペディア引用。

私がこの病気を知ったのは、ブラックジャックの「未来へのおくりもの」という物語で。(拙マンガブログの記事はこちら

この著者のお母さんは、ALSの中でも特に進行が早く、眼球さえも動かせなくなるという重篤な状態で、これをTLSとまた別に呼び分けるようです。
意識はあるのに、身体が動かなくて意志の疎通が出来ない状態を「ロックト・イン・シンドローム」日本語では「閉じ込め状態」と言うそうですが、こちらのことばは映画「潜水服は蝶の夢を見る」で知りました。
「潜水服・・」の主人公は片目だけが自由に動かすことが出来る唯一の手段。だから瞬きすることで、文章を作り上げ、介護者に読み上げてもらい意思の疎通を図ってました。
でも、こちら「逝かない身体」のお母さんは、12年のわずらいのうち7年間を完全な閉じ込め状態で過ごされたとのこと・・・・想像もできません。
そうなってくると、ついつい思ってしまうのは「そんな状態で生きている意味があるの?」「それで幸せなの?」「私だったら死にたいわ」などなど、正直に言えば存在を否定する方向の考え。
だけど、違うんだなぁ。。。。
そうじゃない、そうじゃないんですよ。
著者の考え方も、落ち着くまでは色々と悩んだり葛藤もあったようですが、結局は存在しているだけで愛しいのだと、「蘭の花を育てるように植物的な生を見守る」ようになっていくんです。
自分だったらどうだろう?彼女のようにお母さんの存在を全肯定できるだろうか、逆に自分がこの病気にかかったとき、「いっそ死なせて」と思うんじゃないだろうか?などの、懐疑はまるで無用。
この著者のように前向きに、ひょっとしてこれは方向性のひとつに過ぎないのかもしれないけれど、患者にとっても介護する人にとっても、一番幸せな方向性だと思います。

こんな風にお母さんが病気になって苦しんで、家庭も自分の生活も未来予想図も犠牲にして介護三昧の日々を過ごすようになってから、悲しみ、絶望に陥り、悩み苦しみながらも結局は受け入れて、患者のためにも介護者のためにも一番良いと思えることを試行錯誤しながらひとつひとつ得て行き、介護生活を「楽しめる」ようになるまでの長い道のり。
またすっかり悟って受け入れられるようになってからの生活にも、ドラマがたくさんあって読み応えもあったし、考えさせられる事だらけで、ある意味教科書や哲学書のように(哲学書って読んだことないけど!)ラインを引いたり付箋を貼ったりしたい箇所が何箇所もありました。
付箋を貼ったところを引用してみます。(自分へのメモのためにも)

「長生きのALS患者は自己愛と存在の絶対的肯定によって支えられる」
「かなり後になってから、病の現実に揉まれた私は、偽りのスピリチュアルケアや、あっさりと死ぬことを奨励する思想が氾濫していることに愕然としてしまうのである・・」
「他者への信頼に身を投げ出すことは、ALSが母に授けた最後の才でもあった。」
ALS患者たちは「たとえ寝たまま機械につながれていようとも、その心と身体の中身は以前のままだ。こんなに屈辱的な思いをするくらいならもう消えてなくなってしまいたいと絶望するが、命が大切だからこそ死ねなかったのである。どんなに重症の患者でも、自分は人として最期まで対等に遇されるべきだという意識で満たされている。
健康で四肢麻痺のない人たち、すなわち病の他者にしてみれば、自力で動けない重症患者の怒りはただのわがままや甘えにしか見えないし、おとなしい患者は慈悲の対象でしかない。無抵抗で意思表出さえ満足に出来ない者は、廃人、末期の者・・・。最近では、そのような者への医療を切り詰めることへの正当性さえ露骨に語られている」
「大切な肉親を『生きていては哀れな存在』と思い込む」過ち
「あるがままの生を肯定する思想」の欠如
「患者を哀れむのをやめて、ただ一緒にいられることを喜び、その魂の器である身体を温室に見立てて、蘭の花を育てるように大切に守ればいい」
シンプルな「生きる」と言うことだけに目を向ければ、こういう著者の考え方や思いは、病気である無しにかかわらず、生きている人たち全員に言えることなのではないかと思います。

それと、本書を読んでいて思ったのは、生命の神秘。
たとえば、まったく意思疎通が出来ず、患者が何を思っているか分からなくても、身体は「訴える」と言うのです。
汗をかいたり、毛細血管が開いたり閉じたりして、顔色が変わったり・・そんなことで、身体のどこかが痛いのだとか、感情なども訴えてくると言うのです。

こういう病気を知り、ああ、私はまだまだ幸せだ・・などと、比較でモノを言うのはあまりにも失礼だし傲慢な行為でしょうが、でも、普段意識もしないでやっていることの全てが、「不思議な力」で「ありがたい」と思えてなりません。
筋力が弱れば、おしっこすら出来ないんですよ。「トイレに行けない」と言うレベルの話じゃないです。たとえおまるを当ててもらっても、膀胱の筋肉が動かなければおしっこを出すことも出来ないんです。
つばを飲むことも出来ないから、よだれが流れっぱなしらしいです。よだれが流れっぱなしって言うことは、その分体内の水分が減ってしまうと言うこと、だからその分水分補給が必要・・・
などなど、普段はあまりにも当たり前に思ってることが、実は当たり前じゃないと知るとき、自然の中で「生かされている存在」なのだと、気がついたりしませんか。
たとえ欠点だらけの身体でも、自分の体が愛しく思えたりしませんか。

そんな風に、いろんなことを考えさせられ教えられた一冊でした。
先日読んだ「こんな夜更けにバナナかよ」にもとても共通するところがあると思いました。




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